昭和五十二年一月二十五日 朝の御理解


 御理解第六十一節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」


 おかげを受けたら神心となりてと、ですからこのおかげというのは、神心がわかり神心にならせて頂く事が、愈々尊いものものである有り難いものであるという事が、分かる所まで信心を高めなければならない。神心とは、言うなら赤の他人の人を見てもそこに難儀な人を見たら、それこそ自分の子や孫が可愛い様な思いでその難儀な人の上の事が、思われ祈られお導きが出来る様な心を神心というのですから、仲々神心となりてと言う、私はこの神心となりて人に伝えて行く、言うならば合楽示現活動という事にもなりましょう。そしてそこに真の信心をさせるのが神えのお礼ぞ、それが神になるのぞと言う所に至って来ると、愈々確かに神心となりて行くと言う事の焦点精進が必要だと、これは今日は六十一節を大変難しゅうまあ言わば聞いて頂くわけです。昨日も山口の浅野さん(山口県滝部)から分厚い手紙が参っとりますが、月の内十日のお月次祭だけが参拝日とまあ自分で決めておられる。そしてそのたんびんにお導きがある。今度は五人、今度は六人、今度は七人という様に段々そのお導きの数が増えて行く、というのがお導きを受けた人達が的確に、もう永年どうにもならなかったという難問題が解決して行く、というおかげを受けておるのです。その一人一人のおかげを受けた、その今日の研修は、これを取り上げて研修させて頂いたんですけれども。○○教会に何十年信心をしておる方、だから今この浅野という方が合楽にお参りをする様になったという事を聞いて、この幹部やら総代さんが「あんたどういう訳で合楽やらに参るか。」と言うて説得に見える、そこでなら合楽の話をする。そうするとミイラ取りがミイラになる様にです、そんなら私も一遍参って見ろうかと言うて、永年信心しておる人がどうにもおかげの頂けない問題をお取次ぎを願う。それが次のお参りまでには、見事におかげをいただいておる。もう次のお参りまでにはお礼ば早く申し上げてもらわねばと言うので、浅野さんの所に持ってみえた。四件のもう本当に有り難いおかげを受けておる。どういう訳で、これが他所の教会に熱心にお参りしておっておかげにならんのだろうかと、それがチョッとヒントを与えると、今迄の永年の信心があるもんですからすぐ抜けて行けれる。これは今の直方地区から参って来よる方達もそうです。彼方はもう月次祭のたんびんに、段々人数が増えて行くわけですね。それがその的確におかげを頂いて行くという事です。ですからそういう場合とてもです、何が神心に匹敵する様な事になっておるかと言うと、この方は頭の良い方で女の方ですけども、合楽理念を説かれるんです。そしたらもうどの信者でもが、ほうち言うてたまがるそうです。とにかく私は、だから合楽理念の勉強又は御取次ぎ成就信心生活運動と言われておるけれども、私は合楽示現活動に参画すると言う事が本なこつだと言うて、合楽示現活動に参画する内容を説かれるわけです。言うなら、もう助かる事にすぐ直結するわけです。一昨日でしたか、甘木で筑水地区の青年会が出来て二十周年になるので、甘木教会で此処からも十五名の青年の方達がおかげを頂いとる。その話のテ-マが、チラッとチラシが出来とるのを見ただけですけども、「信心を現そう」でしたかね。青年会の大会テ-マが、「信心を現そう」じゃなかったですか。信司さんそうだったですね。だから「信心を現そう」と言うた所で、今頂いておる信心を現したって、おかげにも何にも繋がらない様な信心を現したって駄目だという事なんです。だから私は結局、あのおかげを現しうるという事、おかげを現しうる信心を頂こうという事にならなければ駄目だと思うんです。只おかげおかげじゃない、御利益御利益だけじゃない、その御利益の受けられる信心を頂こうと。だからそのおかげの受けられない信心を如何に現した所で、それがどんなに素晴らしい内容を持ったにしてもおかげの受けられないものはもう生きた宗教としての値打ちは無い。だから信心を現そうという事が、本当に信ずる心であり、真心であり、神心であるといった様な信心ならいざ知らずだけれども、自分たちが頂いておる信心を現して行ったって、それはおかげをかく、こういう信心してかくおかげを受けた、というおかげの実証があっての信心じゃなからなけりゃあならない、という事なんです。神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞと。私は今の合楽理念というものは、いつまでも尽きぬおかげの頂けれる信心内容だと思うです。だからどうでも合楽理念のマスタ-が必要です。合楽理念をマスタ-して、それを一歩一歩その内容に触れて行くという行き方さえすればです、尽きぬおかげが頂けるという事は、言うならお徳が受けられるという事になるです。尽きぬおかげというのはね、限りないおかげというのは、これはもうお徳の世界です。だから尽きぬおかげの頂けれるような信心を現して行かにゃいかん。それにはなら、合楽理念を自分が頂いて、その理念に基づいておかげの受けらる、力の受けられる信心になって行く。そこから神心は自ずと、言うなら合楽理念をマスタ-して行くならばです、言うなら神の心を心とする修行なんですからね、一口に言うと、合楽理念は。その根本になるものは、私親孝行だと昨日申しました。けどもその親孝行がエスカレ-トして行かにゃいけん。もっと素晴らしい親、もっと高度な親を私共は気付かせて頂いて、その言うなら最高の親である所の天地金乃神様への、言うならば親孝行な氏子としておかげを頂く時に、初めて金光大神の信心が世に問われ現されて行く時なんです。だから親孝行なという人は沢山ありますよ。
昨日は上滝さん所の謝恩祭でしたが、もうあちらなんかは、もう上滝さん自身も大変親孝行だし、子供達も皆親孝行です。それは年々歳々やっぱおかげを頂いて、去年今度は控えが出来て、その控えの前に気の利いた小さい庭が出来とりましたが、それが余り良くなかったから、親先生が見える迄にもう一遍造り直してくれと言うて造り直してありましたが、仲々良か庭が出来とりました。そりゃもう本当に、年々歳々言うならば繁盛の一途を辿らせて頂いとらなければ、ああいう事は出来ない。言うならお供え一つ御直会一つが、年々歳々垢抜けしたおかげが頂けれるように、段々なって来ておる。お参りも、段々やはりそれに伴うて多くなって来ておる。けれども何処までも親孝行の域から一歩も出ていないという事です。次の親へという事が無い。これはね上滝さん、もう信心頂いてもうやがて三十年近く成るだろうけれども、これは仕方のない事だよ。なら私だってやっぱそうだ。私がまあ六十四才になりますが、なら六十四年の信心、実を言うたらもう七十何年になりましょうね、婆からの信心ですから。けど私だけの信心にしましても、なら私がとにかく、親孝行したいの一念と言うのが私の身上でもありましたと自分で思うんですけれども、例えば、なら七年間酒屋の小僧生活させて頂きましたけれども、一遍だって私は親に泣き言、言うた事がないです。こげな難儀な目にも会わんならん、もう私はあげんとこ辞めるなんて、一遍でん言うた事はないです。これだけでも私が親孝行だったちゅうことが分かるでしょう。もう親に対しては一事が万事そうでしたが、それにそういう例えば信心がです、言うならば私が六十四才ですから、三十から真の信心になったとしましても三十四年間という間は、なら皆さんと同じ様に只、親孝行の信心に尽きておったという事です。
それが終戦そして引き上げ、そこから今までの行き方の間違いに気付かせて貰うて、いや気付いた訳じゃないけども、やはり親孝行がしたいばっかりで一生懸命の信心が出来て来た。そして一生懸命の信心をさせて頂いとる内に、こらもちっと本当の親があるんだと言う事がエスカレ-トしていった訳なんです。そして天地の親神様の、良い親孝行な私にならせて頂こうという所から、なら神の心を知らなければ親孝行は出来ませんものね。親が頭が痒いかちゅうと、尻どん掻いてやりよるんならいかんでしょうが。頭が痒いちゅうなら頭を掻いてやらにゃいけん。尻が痒いかちゅうなら尻ば掻いてやらなければ親孝行じゃないです。掻いてさえすれば親孝行のごと思うとる。信心を現すということはそういう事なんです。本当の所も分からんなりにその信心を現して行ったって、金光教の信心はおかげを受けられんとばい、と言う事になってしまうのですね。だから神様の本当に言うならば、第一の忠臣にでもお取り立て頂きたい、良い氏子としてのおかげを頂きたいと言うならば、ならその親神様の心が分からなければならない。その親神様の心が段々段々分かってきた。そしてその親神様の心に添うて行く、それが又合楽理念の真をなすものになっておりますから、神の心を心とするという事は、天地日月の心になる事だという風に説いてあるわけです。そこに至った時に初めて金光様の御信心が本当に世に問われる時、そこには神様の、出来んけれども親孝行したいのその一心に免じてとでも申しましょうか、神様がおかげを下さる、お徳を下さる力を下さる。
今朝私はこんなお夢を頂いた。私が何か小料理屋の板場をしとる様な感じなんです。それでお客さんが五人あるという事で、丁度島浦の様な所でね、筑後川の元の川です。あそこでは鮎が良く捕れる所です。そこに鮎を買いに行っている訳です。お客さんが五人じゃから鮎を五匹くれと言うて船頭に私が言うておる。さあ五匹居ったじゃろうかと言うて船の中にこう魚を入れる所があります。そしたら大坪さん丁度五匹あったですよと言うておるとこでした。やあおかげ頂いた一匹でん足らんならどんこん出来んじゃったあと言うて、その五匹を頂いて帰って、又買いに行っとるんです。その時もやっぱり五匹なんです。あら居るめえち、そればってんちょっと待って下さい、釣り糸がしてある訳ですから、釣り糸をこう手繰ったら丁度五匹掛かとった。大坪さん、あんたはふが良かのう、又五匹掛かっとったからと言うて、まだ生きとるビリビリした鮎を又五匹頂いて帰っとった。そして今度又買いに行っとるとです。その時も又五匹買いに行っとるです。そしたら、大坪さん七匹あるけんもう二匹どんまけたっちゃどんこん仕様がなかけん、七匹ながら買うて行ってくれち言いよったです。なら五匹で良かばってんが仕様がなかて、買うて行こうと言うて帰ったら、丁度お客さんが二人増えて七人のお客さんで、ああおかげ頂いたち言うて喜びよるところ所で目が覚めた。私はこれは合楽の信心の端的なおかげの表現だと思いましたですね。お繰り合わせをお願いして行くとです、ああ五人と思うたら、丁度あるじゃろうかと思うて行ったところが丁度五匹あった。次には又五匹いるから行ったところが、その次にはどういう事になるでしょうかね。もうこれは天地の働きを受けとらなければまだ上がっとらんとですから、釣り糸を手繰っとったら丁度五匹掛かっとったというお繰り合わせになっとった。おかげでお繰り合わせになっとるわけです。その次には言うならば思いもかけないおかげになっている訳です。こっちは五匹で良かけれども、まあ七匹あるけんまあ七匹どうでも買うて行って、二匹どん余らかしてん出来んという訳なんです。ならいらんばってん買うて行こうかて、いらんばってん買うて行ったところが、実際はお客さんが又二人増えて七人であったというのですから、これは言うならば思い以上のおかげと言う事です。ここでねおかげを受けるお繰り合わせを頂く、いいですか、おかげを受けるお繰り合わせを頂く、それこそ夢にも思わなかった様なおかげの展開になってるわけです。それも何故鮎であるかという事を寝ながら考えさせて頂いて、ははあこれは神愛だなと思いました。そういう神愛を受けさして貰う体験をさして頂くためには、本当にその神愛に触れ、神愛を頂き、その神愛を自分の心にも頂き現していくという事に成らなければならない訳です。
昨夜帰らせて頂いて、昨夜はもう家内が今風邪ひいとりますが、もう今にも息の切れんごたる咳をするんです。もう一晩中しとるわけです。そのたんびんに私は床の中で祈らせて頂いたんですけれども、もうあんまり長く続くから、ちょっと起きて行ってやろうかと思う位に咳き込んどります。そして神様にお願いさせて頂きましたら、大黒様がどじょう掬いば踊りござる所を頂いたんです。大黒様のどじょう掬い(笑い声)。とにかくまあどじょう掬いの様な恰好で、しょうけでこうすくいよんなさるところの。ところがそのしょうけの中にはどじょうじゃなくて、小判やら色々宝物の様なのが掬うたびに入ってくるという様なお知らせでした。して見るとね、なら家内が風邪を引いてもう息のひき切れるごと咳をしよるという事、そこに私が祈るという事もそれもやはり神愛であるという事なんです。どういう事かと言うと、その事に依って私が一つの修行をする、修行する事に依って私は力を受けるというか、言うなら大判小判がそん中に入っとる様な、しょうけの中はどじょうにあらずしてそういう宝物が入ってくる様なおかげを受けるのですから。家内の言うなら病気なら病気のおかげでと言うのですから、その病気そのものも神愛だという事が分かるでしょうが、ね。先日から頂きます一切が神愛と答えの出る所まで、様々な難儀であり問題であるというものを、極めて行かせて頂く様な信心からでなからなければ、私は神心は生まれて来ないと、ね。神より金光大神に何時までも尽きぬおかげという事になるのです。お願いして、お取次ぎを頂いておかげを頂いたと言う、そこでおかげが切れると言った様なおかげではない、又お願いに行って又おかげを頂くと言った様なものでもない。尽きぬおかげ、限りないおかげ。私が鮎を買いに行っとる三回のそのおかげは、まあ尽きぬおかげでしょう。お客さんが鮎を食べたいと言いなさる、けども買いに行ったけれども無かった。断り言わにゃならんじゃったと言う事が無い様なおかげを、しかも三回とも続いて段々あか抜けしてきたおかげを頂いて、次にはお繰り合わせを天地自然のお繰り合わせを頂いて、次には夢にも思わない様なおかげに展開して行く。そこに成り行きを大事にする、自然を大事にする、いやもう私は五匹で良かと言わずに、ならそんなら仕様がなかたいと言うて、七匹を買うて行っておる所にです、夢にも思わないおかげを言う事の展開になってきとる。まあ鮎位だからじゃだけれどもね。それがなら大きな金額なら金額になって来ると大きいですよ、これは。仕入れに行った、これは安う負けとくけんで買うて行って呉れんの、いいやそげなもんないらん、そげなこつ言わんで買うて行って呉れんの。買うて行った所が、それが最高に売れたといった様なおかげになって来るのですから。そこに私は、合楽理念をマスタ-せんとそういう所になって来ないとこう思うんです。だから合楽理念こそ、金光大神に天地の親神様が尽きぬおかげを話にしておかれたのは、もう合楽理念だと言っても良いわけです。断片的なおかげじゃないです、尽きぬおかげです。昨日私は上滝さん所で、今あんた方に昨日の朝の御理解を少し聞いて貰うて、言うならば桜の花の信心なんだ、おかげを頂いて、けれどもこれが梅の花の信心になって行かなければならない。それは何かそこにチャンスがなからなければね、時期を与えられなければ中々出来る事ではない。さあ明日から朝参りをしてこんの、そしてお徳を受ける信心にならんの、梅の花の信心をしなさいと言うても仲々出来るものではない。なら皆さんがこんなに沢山朝参りしておるからと言うて、なら皆さんがそういう尽きぬおかげの頂けれる程しの力も頂こうお徳も頂こう、と言うて参って来る人はそれこそ極くまれであろうと私は思うです。そうでしょうが。だから言うならば皆さんが桜の花の信心なんです。その桜の花の信心をさせて頂いておる内に、合楽理念の体得が出来て、合楽理念に基づいた生き方でも出来る様になってくる時にです、私は此の尽きぬおかげと言うか、その中に合楽理念をマスタ-するなら、まずは神心を心とせねばならない。天地日月の心といった様な心も段々出来て来る。そしておかげを絶対なものとして、人に合楽理念を語る事が出来る。ならこの浅野さんじゃないけれどもです、とにかく外の事は言わん。とにかく合楽理念を説く。合楽示現活動に参画させて頂いておることを説く。これに一番最後に書いてございますのが、総代さんがこの手紙を書かれた日に見えとります。そして合楽理念を語らせて頂きましたら、そんなら私も一遍この次にはどうでんこうでん連れて参ってくれという約束を致しましたから、お繰り合わせ頂く様にという事であった。只おかげを頂かれると合楽理念を説いて、その合楽理念にかかって来る様な信者でなからなければおかげは受けられんという事が分かります。本当に永年信心しよったけれども、ほんなあられんところばっかり頂いとったなあと。成程、合楽理念を聞かせて貰えば聞かせて貰う程自分の信心が欠げて居った、言うならなそうと思うたら子供でもなせる事をおろそかにしておった、そのおろそかにしておった所からおかげが洩れておったという事に気付いて来るわけなんです。今日は私は、神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞという事を、それは金光大神が話して残しておって下さった事は、その合楽理念に集中されておるという事、結集されておるという事なんです。神心となりて人に伝えて行くというのがね、神えのお礼であり、しかもそれが神になるのぞと言う、その神心となりてと言うのが、合楽理念をマスタ-しなければ神心は生まれてこないです。只お導きの名人と言うだけであっちゃならん。合楽理念をマスタ-し、合楽理念を本気で自分で行じようという心の姿勢というものがお導きにある時にです、自ずと神心という事になってくるのです。だから只信心を頂こう信心を現そうではなくて、おかげの受けられる、しかも尽きぬおかげの受けられる信心を頂いて、現して行こうという事にならなければならんという事でございます。今そういうおかげが受けられるからという、又おかげにかけて、なら寒修行なら寒修行をする事がいけない事じゃないです。それに依って愈々神様を確信するところのおかげを頂かして貰わんならんですから、そしてその正義先生じゃないけども、何かの機会なんです。確かにおかげを頂いてきた日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いてきた。もうこれ以上はなかろうごたるけども、こん位の事はまあ、ほんな神様のおかげにすればほんな大した事なかばいと。これからのおかげは言うならば正義さん、夢にも思わない様なおかげに展開して行かねばいけないよと。それにはね、日勝り、月勝り、年勝りじゃつまらん。年勝りのおかげを頂いてあんたが一生を終わった時に、果してそれを子に孫に伝えて行けれるかどうかという事は分からん位な信心じゃでけん。必ず子が孫が、これを愈々末広がりのおかげにして行ってくれるという確信が持てれる様な信心は、言うならば代勝りのおかげの頂けれる信心を頂かなければいけないよという事になったわけです。だからあのお礼の謝恩祭、見事に出来た神様の御奉斉式がです、それを境に言うならば尽きぬおかげの頂けれる信心に切り換えられる事の為に、今正義先生が精進しとると私は思うんですけれども、だと思うんです。その証拠にどうぞ代勝りのおかげの受けられる信心をと願うておられるんですね。その為にはまずなら日勝り、月勝りの所も頂かなきゃならんて。そりゃもう上滝さんとこあたりのそりゃ本当にですね、わたしは欲しいとは思いませんでしたけれども、先生これは私がこの頃書きましたと言うて、この頃お茶、花それから書道。もう字なんかでもそりゃ素晴らしい字をかくごとなっとるですよ、やっぱり稽古ちゃですね。そりゃもう本当に上滝さん、あんたばっかりはちょいと面白い女ごじゃあるの、と私は言いよる。と言うのが、丁度昨日、三時の研修の時に親子連れで参って来たです。長男と二人で。はあもう今日はあんた宅祭りでテンテコ舞しよるとじゃろうのに、いえもう家はもうちゃんと誰々さんにお願いしてもう何もかも出来とりますから、一寸お礼参拝して来ましたとこう言うとじゃった。とても真似ん出来る事じゃないでしょうが。そしてから宅祭りの始まるということの一月前から、もう一生懸命参って来るです。親子連れです。これも不思議です、もう本当あんた方ほんなめえす取りの信心のごたる信心してからち言うけども、そうじゃないです。結局今まで乱れておった神様との間にです、調子が合ってなかった、その調子を合わせる事の為に一生懸命なっとる様ですね。だからなら、ああいう宅祭りが出来る訳です。
そりゃもう本当に、丁度昨日は兄弟皆来とりましたが、二番目の息子が養子に行っとる。それが丁度あの人が三十四だそうですから、三十三の時に上滝さんが亡くなっとるです。本当、もうこう息子ばっかり四人まあだ這い這いするごたるとばっかりじゃったとが、此処まで手足伸ばすだけでも大変な修行であったろうけれども、そういう修行して来とるけん、今日のおかげは当然と言えば当然、親孝行するのも当たり前と言えば当たり前ですけれども、それも一事が万事神様にお縋りをして、今日おかげを頂いたという実感があるから、そんなに信心がおろそかになって行きよっても、宅祭の時には本当の謝恩祭が出来にゃならんという様な精進をするのです。最近は絵まで習いよる。短冊じゃら色紙やら一杯書いて、額に上げちゃるですこうして。これを教会に奉納したいと思います。とても今幾つでしょうかねえ。とてもそれこそ優雅な生活をしてるわけですね。
心掛けが違うです。私が、昨日上滝さんは直ぐ帰って、大和さんがお迎えに来て下さったです。そん時にお礼申させて頂きましたら、奉るという字のこう三本引いてこうする所を消して頂く訳ですよね。奉の上半分をけしたら後はなんですかキが残る。片仮名のキが残る。だからこの人の信心はほんな気は心だという事です。気は心という事は〈大変お性分〉だという事です。
昨夜も私はその事を皆に話しました、もう本当に、もう本当に自分方にある薯がらとか薯とか私が好きだから。もう親先生が好きだからちゅうんで、今度はお蕎麦をする。私はお蕎麦一杯しか頂かなかった昨日は。それでもね、ちょこっと出しとるとが食べにゃおられんごたる感じがするとですよ。だから結局彼女の真心だと私は思うんです。どんなにあなた御祝儀の膳の山をしとったっちゃ、私が食べんなら何にもならんでしょうも。それこそ気は心です。だから、この気は心の信心から奉るの信心になった時が本当なもんです。だからこれはなんじゃ機会が出来チャンスが出来たら、又所謂桜の花の信心から梅の花の信心、おかげを頂く信心からお徳を頂く信心に切り換えなきゃいけんよね、と言うてまあ昨夜話をした事でした。だから奉る道というのは、この久保山さんが頂かれた様に、お道の信心とは奉る道だとあるんです。その道というのは通町の通るという字が書いてあるです。通じるという事。奉る道という信心をするなら必ず天地に通ずるという事です。これはもう金光教の信心の根本をなすものですけれどもね。言うならば一切が貴方の御物だと奉っていく生活なんです。これは財産も、自分の身も心もそうなんです。だからなら朝参りをして来る事もお話を頂いてお参りして来たのであり、帰って女の方がご飯を炊かんならん時も、なら奉っておる体を下げて頂いて、只今からお食事の準備をさせて頂きますという事になってくるわけです。お金でも、全部息子がなら働いてきた給料は、全部神様えお供えをする。その中から必要なだけを贅沢にならん様に、神様のご無礼にならん様に神様にお願いをして頂くという生き方なんです。これが奉る道です。自分の財産から、自分の手腕で成すという信心からね、神様のおかげでというこれは又大変根本的なものですから、大変深いことでからとても一時二時で話せる事じゃないけれども奉る道、気は心から奉る道え入って行けれ様な信心がです、神様の願いなんです。親孝行、一番初めは親孝行しようごとしてたまらん人でなからにゃおかげが頂かれん。これは合楽理念の根本だ。けれどその親孝行もなら又次の親、いや本当の親ということにエスカレ-トして行く所にです、なら親に孝行しょうと思やあ、親の心が分からなければ親孝行は出来ない。親の心が分かって、親の心に添う生き方になった時に初めて親孝行という事になる。だから神様も又、その言うなら可愛いという働きが生まれて来るのが尽きぬおかげであります。限りのないおかげに触れて行く為に、言うなら愈々合楽理念のマスタ-が急がれなければならない。又その内容に触れて行かなければならない。そして成るほど金光大神が言われる何時までも尽きぬおかげの頂けれる信心とは、まず合楽理念をマスタ-して行く、合楽理念を一歩一歩本当なものにして行く精進こそが、限りないおかげに繋がって行くんだという事でございます。どうぞややこしくなりましたけれども、そうぞ私が頂いとるそのお夢のお知らせ、その事をもう一遍思うて下さい。おかげを頂く、お繰り合わせを頂く、次には思いもかけない、夢にも思わぬおかげに展開して来るというおかげの世界も、そういう信心段階。お願いしたけども、頂いたり頂かなかったりというものではなくて、的確に頂けれるおかげの世界に住みたい入りたいと思いますね、どうぞ。